牧 師 室

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神の国はあなたがたの間に

 

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ福音書1720-21節)

 

 イエス・キリストの宣教の中心は「神の国」であった。神の国とは「神の支配」とも訳され、「神が王として行う支配」ないしはその支配が貫徹される領域としての「神の王国」を意味する。バビロン補囚後の預言者運動から始まり黙示思想と呼ばれる終末的な思想において発展する「神の国」の概念には、強大な外国支配からの解放という政治的な側面と、やがて終末に現れる〈神の都〉の描写や神の国が「いつ来るのか」というその到来の時に関する黙示的思弁が特徴的であるが、イエス・キリストの神の国には政治的、思弁的性格が欠けている。もちろんそれには終末論的な要素が備わっているが、むしろイエスは、人間の歴史的現実を通して、リアルに働きかける神の意志の圧力を神の支配と見た。従って〈信仰〉とは、この働きかけに自己を徹底して開くことであり、イエスの説く〈愛〉の倫理とは、父なる神の下に、あらゆる人間的・社会的な阻害要因を突破する神の支配の〈働きかけ〉〈語りかけ〉に対する従順を意味する。「善きサマリア人」の譬えに見られるように、憐れみを必要とする無言の声に、すなわち倒れているユダヤ人を助けるように自分を促す働きに対して、直截に応答することである。それは律法の言葉を機械的に墨守する律法学者やファリサイ人の倫理とは本質的に異なっている。イエス・キリストの宣教とはこの神の支配に人を直面させることにあった。

 それゆえ「神の国は見える形では来ない。……神の国はあなたがたの間にある」と言われる。それは「いつ」とか「ここ」とか「あそこ」というように、私たちから距離をもつ対象として存在するものではない。「〜の間に」と訳されているギリシア語の〈エントス〉という前置詞は、〈エントス+槍〉と使うと「槍が届く範囲に」という意味になる。「あなたがたの間に」とは、あなたがたが手を伸ばせば届くところにある、という意味である。これは神の国の切迫と現実性を表している。つまりこれは神の国が人間(じんかん)倫理の基礎だと言っているのでも、あるいは、人間関係が神の国が具現化される絶対的な場であることを主張しているのでもない。それは、「隣人は誰か」と問うたファリサイ人に、「隣人になりなさい」と答えて、隣人とは「なる」ことによって初めて生まれてくるものであることを示したキリストの答えのように、〈神の国〉は手を伸ばせば届く範囲にありながら、人の経験として実現を待つ〈何か〉であることを示している。それゆえキリストは、みもとにやって来た幼な子らを呼び寄せて、「止めてはならない。神の国はこのような者の国である」(ルカ1815-16節)と語ったのである

挽地 茂男